in カンボジア

現在、カンボジアシェムリアップにいます。


この国にはアンコールワット以外期待していなかったのですが、これ程クソッタレな街だと予想だにしていませんでした。ここまで魅力を感じないことは初めてです。


魅力を感じない理由は数点ありますが、その一つに、バンコクでとても親切にして下さった方からクメール人のネガティヴキャンペーンを延々と聞かされ偏見を構築されていたというのがあります。ただ、現在はそのフィルターを完全に踰越した感があります。根本的にこの街の人間と空気を受け付けないのでしょう。それに、後進国が資本の波に呑まれるのは仕方のないことですが、原初的な姿形が跡形もなく消失しているのがとにかく気持ち悪い 。この例はシェムリアップに限ったことかもしれませんが、増幅する感情に自分自身が呑まれちゃいました。今ではこの国自体が嫌いです。感情って悪辣ですね。


今は一刻も早く脱出したい




不自由

暇だったんで衝動的に立ち上げた。ダラダラと書くので読みにくかったら申し訳ないです。


今は東南アジアのタイにいます。俗にいうバックパッカーという奴です。現在は一人で各国を回っていて、あるがままに各地を巡回しています。旅をしていれば思わぬ出会いや発見があり、新たな価値観を得ると共に自分自身の変遷ないし成長を感じます。


この流れで「やはり旅は良いですね!」と言いたいところですが、実際はバックパッカーというラベルの希薄化に驚きを隠せません。基本的にこの大枠って非常に適当です。何故かって、その理由は間口の広さに在ると思います。だって、リュックを持って観光旅行をすればみんなバックパッカーですから。この手軽さに疑問を感じ始めたことから、僕の中でのバックパッカーに対するステレオタイプが瓦解し始めました。


実際にこのカテゴライズをされるまでは、気ままで自由な旅人というものに羨望を抱いていました。また、組織の介入を避けながらも固定の居場所を担保している意味で高次のリバタリアニズムを実現しているとさえ認識していました。まさにパノプティコン的な現代において、唯一自由を享受できる存在だと


けれど、実際に自分自身にこのカテゴライズが成されると印象は一変しました。


私が感じたバックパッカーに対する印象を一つ挙げるなら、「バックパッカーは自由人ではない」に尽きます。むしろ、「他者の介入の不可避性」とでも言いましょうか。


これは私にも言えたことですが、やはり他者の介入を避けることはできません。熟練者からのアドバイス、ガイドブックが提示する旅のモデルケース、インターネットでの情報、、これ以外にも数多ありますが、やはり共通してるのは他者です。他者の介入の結果、旅は彩りを失い、過度に予定調和的なものとなります。「あそこは見る価値ないから」「あのホステルは南京虫が出るから」これらは有益なアドバイスに見えても、バックパッカーの自由性を制限するものでしかないということ。そして、それは旅の予定調和化を生み出すということ。


確かに、旅をコストパフォーマンスの高いものとしたい層にとっては有益かもしれません。しかし、私の理想とするバックパッカーとは、その本来的な自由を謳歌できる人種のことです。コスパを追求し、予定調和的になった旅人など、去勢された旅人に他ならないのでは?本質主義は唾棄すべしものだけれど、バックパッカーの本来的な魅力とはその自由性にあるものだと思います


そこで強く感じるのは、「後進国の観光地化」に連なる「観光のモデル化」です。他者の介入の結果、全ての旅が選択肢を削られ均質で無機的なものとなる。無意識に他のバックパッカーと同じモデルの選択を迫られていること、これは現に今感じていることです。まさに私自身が去勢された旅人に他なりません。


モデル化した自由人=バックパッカーに自由性は在るのか?あって欲しいのは山々ですが、現状では自由の無力感を感じるばかりです。




最も自由であるはずのバックパッカーに自由がないとすれば、自由とはどこに存在するのか